11 はれて自由人に
カウントダウンを開始してから3年、2008年2月末日をもってついにXデー(退職日)がやってきました。私の場合は自営業なので正確にいえば廃業したわけです。 これまで40年間、まじめに働き続けてやっと自由人になることができました。 大学を卒業して最初に就職したのが定期航空会社で、その後他社へ転職しましたが、20代後半までは航空業界で働いていました。その関係で自作航空機の世界に入り込むこととなり、飛行機好きの神主さんのグライダー(複座)造りを手伝ったり、自分でジャイロコプターを飛ばしたりしていました。 当時自作航空機はまだ黎明期で、実際に飛行している人はほとんどおらず、ジャイロコプターの仲間も全国で12人しかいませんでした。また、自分で造った飛行機を正規の操縦訓練を受けて飛ばしている人はほんのわずかで、ほとんどが見よう見まねで飛行するといった危険極まりない状態でした(私はちゃんと飛行学校で軽飛行機の操縦訓練をしていましたよ)。私も墜落事故を2度目撃しましたが、その時は幸いにも大事には至りませんでした。でも結局12人いたジャイロ仲間のうち3人が墜落死するという悲惨なことになってしまいました。 29歳で大型トラック・バスの製造会社に転職し、これを機に危険な空の冒険からは卒業することになりました。 次に国内T自動車のグループ企業の車両設計室でカーエアコンの設計を8年間務め、そのあと米国F自動車の電気・電子事業部で3年、国内某企業の新規事業開発室およびシステム事業部で勤務した後、ふたたび米国F自動車の「車両開発企画室」、「官庁関連業務室(日本語に訳すのが難しいのですが、お役所との折衝などを行う部署です)」、同じく「ASEAN(東南アジア諸国連合)特別関税認証準備室」の仕事を経て50歳でコンサルタントとして独立しました。 コンサルタントと言えば聞こえはいいのですが、要は一匹狼の「業務請負人」です。米国F自動車の新規プログラム(新型車の生産や新工場の建設)のための最適部品調達計画の策定と部品企業に対する品質監査や価格交渉を行っていました。 対象部品はエンジンと板金プレス部品を除く車両のほぼ全てでしたので、各国から集めた見積もりを分析して最適シナリオを作る作業はかなり大変でした。自分で開発した解析用のコンピュータープログラムを駆使しても数か月間ほとんど休みなく働いた時もあります。まあ、そのぶんF社には対価を請求してきましたので、休みの無いのはそんなに苦にはなりませんでしたけどね(^_^)。 廃業を考えていた頃は世界経済全般が落ち込み、日本でもあちらこちらでリストラの嵐が吹き荒れていましたが、幸いなことに私の仕事は切られる心配は有りませんでした。ただ、コンサルタントの契約更新が毎年あってその交渉が結構うっとおしいものでした。 振り返ればいろいろな仕事をやってきたものです。転職や引っ越しも数多く経験しました。 |
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