ホンダドリームCB72スーパースポーツ
メーカー | ホンダ |
モデル名 | CB72 |
型式 | -- |
全長/幅/高 | 2,000/615/950mm |
ホイールベース | 1,290mm |
車体重量 | 153kg(乾燥)---kg(装備) |
燃料容量 | 14.0リットル |
エンジン | 空冷4サイクル並列2気筒OHC2バルブ | 総排気量 | 247cc |
最高出力 | 24ps/9,000rpm |
最高トルク | 2.06kg-m/7,500rpm |
原動機型式 | -- |
変速機型式 | 常時噛合式4段リターン |
タイヤ | (前)2.75-18 (後)3.00-18 |
▮車両プロフィール▮
1960年11月、当時世界一名高いレースだったマン島TTレースを始め、世界2輪GPでトップを争うまでに技術を急成長させていたホンダから、
4サイクル250ccクラスでは初めてのスーパースポーツとして市場に投入されたのがホンダドリームCB72スーパースポーツです。
CB72のエンジンのベースとなったのは、1957年に発売されていたホンダドリームC70で、まだOHVが常識となっていたこの頃にホンダは2気筒 、しかもOHCエンジンを造りあげて搭載していました。
このホンダ初の2気筒エンジンは、スーパースポーツ用に徹底的にリファインされ、少量生産されていた市販レーサーのCR71とまったく同じ最高出力24PSを発揮。
リッターあたりほぼ100馬力をこの時代に達成しており、その時のエンジン回転数は9000rpmで、これまた驚異的な高回転でした。
それゆえに、当時の広告には「このクルマは70㎞/h以下ではトップで走行できません」という過激なキャッチコピーまでついていた程です。
CB72には、性格の異なる2種類のエンジンが搭載されていました。高速型とされるタイプ1は不等間隔爆発の180度クランクで、中低速優先型とされているタイプ2は等間隔爆発の360度クランクですが、出力は同じです。
最高速度はタイプ1が155km/h、タイプ2は145km/hとなっていました。 両者の違いは外観からはほとんど見分けがつかず、エンジン上部のポイントカバーに小さくタイプ名があるだけです。
フレームにはそれまでホンダの特徴だったプレス鋼板のバックボーンに代えて、ワークスマシンや市販レーサーと同様のパイプ製のダイヤモンドフレームを採用するなどシャシーも本格的で、
フロントサスペン ションもレース経験を生かした剛性の高いテレスコピックにして、リヤのコイルスプリングは3段階にプリロード調整可能なタイプを装着。
フラットなパイプハンドルと3段階に調整可能なバックステップ(今でいう“可変ステップ”)を装備するため乗車姿勢はかなりの前傾姿勢となりましたが、
漆黒の塗装とクロームメッキの輝くタンクなど、ホンダらしい精悍さをただよわすそのデザインは、現代人の眼にもむしろ新鮮に映ります。
キャッチフレーズこそ強烈でしたが、 CB72は気難しく乗りにくいマシンではなく、CR71に匹敵する速さを持ちつつ、一般道路での使いやすさをたっぷり持ったロードスポーツでした。
1959年に発売されたホンダベンリイCB92、そして1960年のこのCB72につけられたCBの2文字は、こののち現代まで、ホンダのオンロードスポーツ車の誇り高いイニシャルになっていったのです。
高校3年生の時、アルバイトで貯めたお金をもとに友人からこのCB72を譲り受けました。 一文字ハンドルと低い乗車姿勢はそれまで乗っていたメグロ500cc単気筒とは全く異質な乗車フィーリングで、 最初は、前踏み式のキックスターターや左シフト・右ブレーキのペダル配置(今ではこれが当たり前なのですが)にすこし戸惑ったものの、初めて乗るスーパースポーツにすっかり夢中になってしまいました。
高校を卒業したあとは東京の大学に進学しましたので、当然このCB72も一緒に東京に行くことになり、以後、卒業するまで一緒に東京で下宿生活をしました。 帰省時には、電車には乗らず実家まで片道約400kmを走って帰ったものです。 卒業後は、就職先が800km以上も離れてたところに決まったため、やむなく手放すことになりました。当時は高速道路もなく、バイクの陸送も今ほどポピュラーでは無い時代でしたので、移動させる手段が見つからず手放すことになりました。
このCB72からは色々なことを学ばせてもらいました。 日常の点検整備にとどまらすエンジンのO/Hも自分でやるようになり、本格的なバイクいじりの楽しさを発見させてくれました。 すべてが見様見真似でしたが、この経験こそが、この先ずっと続く私の長い長いバイク人生のスタートラインになったのだと思います。
1965年に高校3年生の時に友人から譲り受けて乗り始め、大学を卒業するまで愛用していましたが、残念ながら当時の写真は一枚も残っていません。
(写真は借り物です。)